9.3 十戒
第五条
「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである(出エジプト記20の12)」
親は、ほかのだれも受けることのできない愛情と尊敬を資格がある。
神は、お与えになった子供たちの責任を親に負わせられた。
そして、子供たちが幼いころは、親が子供たちに対して、神の立場に立つことを神ご自身が定められた。
親の正当な権威を拒む者は、神の権威を拒んでいる。
第五条は、子供たちが親を尊敬し、親に従順に従うことを要求しているだけでなく、
親を愛し、いたわり、重荷を軽くし、その評判をまもり、老齢の彼らの助け、慰めることを要求している。
それは、また、牧師、統治者その他神が権威をおゆだねになったすべての人を尊敬するように命じている。
「これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている」と、使徒パウロは言っている(エペソ6の2)
まもなくカナンにはいることを予期していたイスラエルにとって、
これは、従順な者にとって、その美しい国で長く生活する保証であった。
しかしこれにはもっと広い意味と、神のすべてのイスラエルが含まれていて、
地が罪ののろいから開放されたときの永遠の生活が約束されているのである。
第六条
「あなたは殺してはならない(出エジプト記20の13)」
命を縮めるすべての不正行為、憎しみと復讐の精神、また、他の傷つける行為を行わせたり、
他が傷つくことを望んだりさせる悪感情を心にいだくこと、(なぜなら、すべて兄弟を憎しむ者は人殺しである)
利己的精神をいだいて、貧者や苦しむ者を顧みないこと、健康を害するすべての放縦、また不必要な消耗、過労に陥ることは、
程度の差こそはあっても、すべて第六条違反である。
第七条
「あなたは姦淫してはならない(出エジプト記20の14)」
この戒めは、不純な行為だけでなく、好色的な思いや欲望、あるいは、そうしたものを刺激する行為を禁止している。
外にあらわれた生活だけでなく、ひそかな意図や心の感情においても、純潔が要求される。
キリストは神の律法について深遠な義務をお教えになり、邪悪な思いや目つきは、
不法な行為と全く同様に罪であると言われた。
第八条
「あなたは盗んではならない(出エジプト記20の15)」
この禁止には、公私の罪が含まれている。
第八条は、人間をさらったり、奴隷売買をしたりすることを有罪とし、征服のための戦争を禁じている。
それは窃盗と強盗を有罪としている。
それは日常生活のどんな小さいことがらにも厳密な正直さを要求している。
それは商売における不正を禁じ、正当な借金や賃金の支払いを要求している。
それは、他人の無知、弱点、不幸につけこんで私腹をこやす行為は、
すべて天の書に詐欺として記録されることを宣言している。
第九条
「あなたは隣人について、偽証してはならない(出エジプト記20の16)」
どんなことにおいても、偽りをいうこと、隣人を欺こうとするすべての試みや意図が、ここに含まれている。
欺こうとする意図が虚偽となりうるのである。
目つき、手の動き、顔の表情によって、ことばと同じように効果的にうそが語られているかもしれない。
わざと誇張されたしゃべり方、まちがった印象あるいは誇張された印象を伝えるように計画された暗示をほのめかし、
事実であっても誤解を招くような言い方などはすべて虚偽である。
この戒めは、虚偽や悪意のある推測や中傷、告げ口などによって隣人の評判を傷つける行為をすべて禁じている。
事実を故意に隠して、その結果他人に害を及ぼすことは、第九条の違反である。
第十条
「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、
またすべて隣人のものをむさぼってはならない(出エジプト記20の12)」
第十条は、あらゆる罪の根絶をはかるもので、罪の行為が生じる根源の利己的欲望を禁じている。
神の律法に従って、他人の所有に対してよこしまな欲望をいだかないものは、
同胞にたいして悪い行為を犯すことはしないであろう
9.2 十戒
第一条
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてならない(出エジプト記20の3)」
永遠に自存し、創造されたおかたでなく、自らすべてのものの根源であって維持者であられる主だけが、
最高の尊敬と礼拝をお受けになる資格がある。
人間は、主以外のなにものをも第一に愛して奉仕することを禁じられている。
神に対するわれわれの愛を減少させたり、神にささげるべき奉仕をさまたげるようなものを心にいだくときに、
われわれはそれを自分の神としているのである。
第二条
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるもの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない(出エジプト記20の4,5)」
像や類似した形のものによって真の神を礼拝することを禁じている。
多くの異教国民は、自分たちの像は神を礼拝するための象徴にすぎないと主張した。
しかし、神はこのような礼拝は罪であると宣告された。
物体をもって永遠のおかたを象徴しようと試みるときに、神に関する人間の観念は低下するのである。
人の心は主の無限の完全さから離れるときに、創造主より被造物のほうにひかれるのである。
そして神についての観念が低下するにつれて、人間は墜落するのである。
「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である。(出エジプト記20の5)」
人と神との密接で聖なる関係が、結婚の象徴によってあらわされている。
偶像礼拝は霊的姦淫であるから、これに対する神の不快がねたみと呼ばれていることふさわしい。
「わたしを憎むものには、父の罪を報いて、三代四代に及ぼし(出エジプト記20の5)」
子供たちが親の悪行の影響を受けることは避けられないが、その罪にあずからないかぎり、
親の不義のために罰せられることはない。
しかし、子供はたいてい親の歩いた道を歩くものである。
遺伝と手本によって、むすこたちは父親の罪にあずかる者となる。
肉体的病気と退化ばかりでなく、悪い傾向、ゆがめられた食欲、墜落した品行が、
父から子へ、また、三代四代と受け継がれる。
この恐るべき事実は、人間が罪の道に歩くのを抑制する厳粛な力とならねばならない。
「わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう(出エジプト記20の6)」
偽りの神々を礼拝することを禁止することの中には、真の神を礼拝するようにとの命令が暗に含まれている。
神を憎む者に対して怒りが三、四代に及ぶと予告されているのに対して、神への奉仕に忠実なものに対しては、
千代まであわれみが約束されている。
第三条
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
主は、御名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかないであろう(出エジプト記20の7)」
この戒めは、偽証や日常のののしりの言葉を禁じているだけでなく、その恐るべきも考えないで、
神のみ名を軽々しく、あるいは不注意に使うことを禁じている。
日常の会話において、神について無思慮に発言することや、ささいなことを神に訴えることや、
神のみ名を、幾度も無思慮にくりかえすことなどは、神のみ栄えを汚すことになる。
「そのみ名は聖にして、おそれおおい」(詩篇111の9)
神のとうといご品性についての観念が心に印象づけられるように、だれもが、神の尊厳と純潔と神聖さとを瞑想すべきである。
そして、彼の清いみ名は、うやうやしく厳粛に言わなければならない。
第四条
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。
それで主は安息日を祝福して聖とされた。(出エジプト記20の8から11)」
安息日は、新しい制度として取り入れられたものではなく、創造のときに制定されたものである。
それは創造主のみわざの記念としておぼえられ、守られるのである。
安息日は、神を天地の創造者として指し示すことによって、真の神とすべての偽りの神とを区別している。
七日目を守る者はだれでも、その行為によって、彼らが主の礼拝者であることを表示するのである。
このように、安息日は、この地上において神に仕える者があるかぎり、神に対する人間の忠誠のしるしである。
第四条は十戒の中で、立法者の名と称号が二つともしるされている唯一の戒めである。
それは律法がだれの権威によって授けられている唯一の戒めである。
このように第四条は、律法の確実性と拘束力の証拠としてそれに押された神の印を含んでいる。
神は、人間に、働くために六日間をお与えになり、彼ら自身の働きがその六日の働き日になされるように要求される。
病人や苦しんでいる者はいつでも世話しなければならないので、必要とあわれみの行為は安息日にもゆるされるが、
不必要な働きは厳格にこれを避けなければならない。
「安息日あなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず(イザヤ書58の13)」
禁止はこれだけではない。
「むなしい言葉を語らない」と預言者イザヤは言っている。
安息日に、商売の話をしたり、商売の計画をたてたりする者は、神から実際に商売の取り引きに従事したのと同じにみなされる。
安息日をきよく守るためには、世俗的なことがらを心に思いめぐらすことさえしてはいらない。
この戒めには、われわれの門のうちにいるすべてのものが含まれている。
家の中の同居人は、この清い時間の間、世俗的な用事をやめるのである。
この清い日には、みんなが一つになって、心からの奉仕によって、神をあがめなければならない。
8 再臨
こういった看板を貼りまくった方々は偉いなぁと思う。
幼少の頃からみていた。
5. エドガー・ケイシーの奥義
【神の探求】
聖書の、みことばを理解してから、実践していく。
(聖書特有の専門用語がたくさん出てくる)
みことば自体が力を持っている。感化され回心させる力を持っていることを知る。
聖書もリーディングも読むだけではななく、次のことを要求している。
① まずは知る
② 知ったことを理解する
③ 実践する
④ 知りつくし、理解し尽くす
⑤ 実践を応用し発展させていく
ただし、自力ではできないように人は創られている。
主に導いていただかないと、成果は得られない。
具体的でないと、効果がないため、成果は実らない。
明確なステップを踏まないといけない。
だから、レッスン1と基礎がとても大切。
聖書理解をしつつ、神の探求を実践してみる。
人間を愛せないとしたら、不必要かもしれない。
人間は不完全すぎて、愛する対象としづらいものではある。
【バガヴァッド・ギーター】
ケイシーは読むことを強く勧めている。
クリシュナはキリスト意識そのものである。
つまり、イエスであるといっている。
だから、強く勧めている。
(とても難しい内容なので、理解できないのなら聖書だけでいいと思う)
イエスとケイシーの前世に、ゾロアスターであったと書いてある。
ゾロアスターとは善悪を知らせる宗教。
かつてエデンの園には善悪を知る木が植えられてあった。
リーディングも、実際に木はあったという。
心眼・神眼というものが与えられますように
【仏教などのインド思想】
世界の再創造を担当するブラフマー。
聖書では、イエスのこと。
何度も輪廻転生をし、30回の受肉をされたイエス。
プラトニズム、儒教、老荘思想、聖書とも、すべてを照らした存在がいると、
リーディングに書かれてある。
正しい解釈をしている宗教は、必要があって創造されたものと書かれてある。
4. 七つの言葉
十字架での7つのことばに、すべてが集約されている。
まさしく、そのとおり。やっと理解できた。
あとは、どのくらい深いところに行けるか。
3.2 ヨハネの福音書14章
- あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
- わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
- そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
- わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
- トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
- イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
- もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
- ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
- イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
- わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
- わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
- よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
- わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
- 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
- もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
- わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
- それは真理の御霊(みたま)である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
- わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰ってくる。
主の中に我を捨ててしまい、魂を砕いていただく。
主よ、我と魂を砕いてください。
知らないうちに、捨てていたようだ。
エドガー・ケイシーが丹念に読みなさいと言っている箇所のひとつ。
3. 聖書の学び方
・最初の一年でいいガイドにであれば、ラッキーである。
出会えないと、盲目のまま、暗闇を歩むことになる。
3年も我慢してストーリーを読んでもほとんど意味がない。
出来事の理解は進むが、詩篇・イザヤ書・黙示録などは理解できない。
・使用する聖書はどれでもいい。
新改訳でも、新共同訳でもいい。
欽定訳でも、新欽定訳でもいい。
・ある時、なぜかわかるとは言えない。
むしろ、きちんとした説明がないと、ゴールに到達しない。
そのように構成されている。
真理の目が開かれないと、理解できないと書かれてある。
自力では不可能とも書かれてある。
聖霊と御霊によって、視えるようになり、理解できると書かれてある
数十年やっても理解していない人々が多い。
一生、目が開かれない人もでてくると書かれてある。
目が開かれた人は幸いだと書かれてある。
・インターネットでは役立つようなものは、少ない
肝心な説明をしていない。
・聖書に関する本も、大半は感想文や雑文。
真に大切なところを伝えていないのは、目が開かれていないから。
・イザヤ28章13節
主の言葉は、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少し。
聖書全体に散りばめられている。
他人に教えるのではない。自分自身と自分の魂に教えていく。
2.2 ノアの箱舟
http://oriharu.net/jhitugi.htm
上記より、抜粋
徳間書店の「契約の櫃」(\2,000)の訳者の林陽さんからの情報。
「契約の櫃」は、エルサレムのゴルゴタの丘の下から発掘されたそうです。
最初の発掘者は、ロン・ワイアットという探検家であり、この本は、その発掘を疑って、後から検証のために発掘隊を繰り出した、オーストラリアの考古学者がまとめた本の邦訳本です(ジョナサン・グレー著)。
発掘されたのは、1981年1月ですが、イスラエル政府が、その情報を開示した場合に予想される民衆の反応を試験した結果、嘆きの壁での大虐殺事件「テンプルマウント大虐殺」へと事態が発展し、その後、時期が来るまで、この発表を極秘にすることに決定され、今日に至っているとのことです。「ムー」誌1998.12月号にも林陽さんが特集をしています。この発見では、地下12メートルの洞窟に安置されていた契約の箱ばかりか、その真上数メートルの2000年前の地層部分に、イエスの磔刑の跡(十字架穴)も発掘されています。穴の左側に大亀裂が走り、そこから、真下の契約の箱の洞窟まで亀裂が延びて、契約の箱を収容する石棺の蓋が真っ二つに割れ、そこを通して、イエズス様の血が中の箱にまで達していたのだそうです。本には、この十字架穴の写真、契約の箱の写真も含め、沢山の写真資料が載っています。以上が、考古学上の発見です。
驚いたことに、今、林陽さんが翻訳されている、アンナ・カタリナ・エンメリックというキリスト教の幻視者がいて、絶えず幻視を見せられていた方なのですが、彼女の1000頁を超す「ライフ・オブ・カタリナ・エンメリック」と2000ページを超す「ライフ・オブ・イエズス」の中に、何と、契約の箱が、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘の真下に位置していて、そこにイエズス様の血が地震で生じた亀裂の中に流れ込んだという記録が見えるのだそうです。以下に許可を頂いたので、少し抜粋させていただきます。
私は、最初に捧げられた犠牲と、ミサが執り行われる祭壇に収められた聖遺骨に込められた、測り知れぬほどの深い意味を見た。私は、カルワリオの丘深く、イエズスが磔にされた地点の真下、水の層にほど近い洞穴に眠る、アダムの骨([ゴルゴタ]=[ドクロの丘]という意味だそうです)を見た。私は、中を覗き、アダムの骨が、右の腕と足、右のあばらの一部以外は、完全に保たれているのを見た。右のあばらから覗いたときに、左のあばら骨がはっきり見えた。右脇には、主が取り出されたときと正確に同じ位置に、イブのどくろが横たわっていた。私は、アダムとイブの眠る場所については色々に議論されているが、二人は私の見たその場所に常にいたことを示された。大洪水以前には、この地点には丘はなかった。その出来事とともに、初めてこの地点に一つの丘が現れた。墓は、水から守られた。
ノアは、箱船の中に彼らの遺骨の一部を持ち込み、最初のミサを行ったときに、祭壇の上に並べたのであった。アブラハムも後の時代に同じことを行った。彼は、アダムの骨をセムから受け継いだ。
アダムの骨の真上、カルワリオの丘で行われたイエズスの血の犠牲は、聖遺骨を下に納めた聖櫃の上で行われるミサ聖祭を予示したものであった。
父祖たちの行った生贄は、そのための準備にすぎない。彼らもまた、聖遺物を所有し、それによって神の約束を思い起こした。箱船にあった五つの孔は、救い主とその教会のひな型であった。
このエンメリックの幻視内容が考古学的に立証された事になりそうですね。さらに、幻視者エンメリックによると、真のゴルゴタの丘の場所は、従来カトリック教会が「カルワリオあるいはゴルゴタ」と宣伝している場所=「城壁の内側にある聖墳墓教会」ではなく、その城壁の外にある丘のことであり、「ベツレヘム門から歩いて7分」で行ける丘だと言うそうです。ベツレヘム門というのは、聖書にも、歴史の本にも出てはいません。ベツレヘム門とはどれでしょうか。
それは、今のゴルゴタ(19世紀末にイギリスのゴードン大佐が初めて発見して名付けた)への門に使われている「ダマスコ門」の横に位置し、今は閉ざされている門だそうです。エンメリックによれば、「真のゴルゴタ(ワイアットの発掘した「城壁の外のゴルゴタ」)」は「ベツレヘム門から歩いて7分」で行ける丘だとの幻視内容でしたが、これについて、林陽氏の友人が、インターネットでイスラエルにつなぎ、調べてもらって、「ベツレヘム門から歩いて7分」というエンメリックの幻視にピタリ一致する門(エンメリックの言う「ベツレヘム門」)と、「真のゴルゴタ(ワイアットの発掘した「城壁の外のゴルゴタ」)」の存在が確認できたのだそうです。 このように、ワイアットの発掘に関して、別の面からも補強されることになったのです。そこで、あのエチオピア・アーク説については、嘘、または、伝説、または、当時いくつも造られていたと想像されるレプリカが運ばれたかのいずれかになりそうです。ジョナサン・グレーの本「契約の櫃」には、神々の指紋の著者さえ、現在は、エチオピア説を撤回していると書かれていましたそうです。
(抜粋 終)
現在のノアの箱舟
・林陽さんに、2冊の本は出版されたのか、聞いてみたい。
ライフ・オブ・カタリナ・エンメリック
ライフ・オブ・イエズス
・林陽さんは、アダムの墓のそばに、マリアの墓があることを知っているだろうか?
ベーメのみた幻
(THE STORY OF REDEMPTIONより)
神は、ノアに箱舟の寸法を正確に示し、その建造について、細部にいたるまで綿密な指示をお与えになった。
多くの点において、この箱舟は舟のようにではなく、ちょうど水の上に浮かぶボートのような土台を持った家のように作られた。
箱舟の側面には窓がなかった。
箱舟は、三階建てになっていて、光線は頂上の窓から取り入れられた。
扉が一ヶ所側面についていた。
いろいろな動物を収容する各部屋は全部、頂上の窓から光線が入るように作られていた。
箱舟は、何百年たっても朽ちないイヌエンジュという材木で作られた。
それは人間の知恵では考えだすことができないような非常に耐久性のある建物だった。
神が建築者であり、ノアが工事監督だった。
ノアがどんなに全力をつくして、工事の細部まで正しく仕上げたとしても、舟そのものだけでは、神が激しい怒りをもって、
地上にくだそうとしておられる嵐の暴力に耐えることは不可能だった。
建造を完成する工事は手間取った。
材木の一本一本は綿密に組み立てられ、継ぎ目にはもれなくチャンが塗られた。
工事を完全なものにするためには、人間のなしうる限りのことがなされた。
しかし結局は、神のみがその奇跡によって、怒りかさかまく波浪から舟を守りたもうことができたのだった。
黄色の◯から一本の直線がでているが、直線の上に、契約の箱がある。
このそばにマリアの墓もあるだろう。
◯で囲われたところが、かつて、命の木と善悪を知る木があったところでは、ないだろうか?(個人的推測)
違うかもしれない。
何のために囲われているのだろう?
2.1 JESUS CHRIST
本来であれば、別の人生があった。
サタンに騙された訳ではなかったが、罪を犯したアダム。
すべてを贖う小羊。
オリオン座にイエスの意識があるという。
ヨブ記には、オリオンの綱と書いてある。
あなたは、プレアデスの鎖を結ぶことができるか。 オリオンの綱を解くことができるか
少年時代のイエス
Jesus the missing years
28才の時のイエス
I AM (神性という意味)
アキアナさんは、イエス・キリストを描いている。
白い服はニコデモに贈られたものだろうか。
天の父へ祈っている時だろうか。
リーディングのいうイエス像は、赤毛がかっているらしい。
山上の垂訓では、こんな感じだったのかな
顔が太陽のように輝いていたと聖書に書かれてある。
受肉された姿のイェシュア(神は救いという意味)。ギリシャ語ではイエス。
この方が最後のアダム。
魂を見ると、何を考えているのか、わかるらしい。
魂をきよめ、創造主の御前に立つために
2.個人的な夢
1・発光体
三度(もしかしたら、それ以上)夢に、現れた。
澄んだ声で、「私のもとにきなさい」と言った。
私は、「私の下」だと思っていた。
読み方は一緒だが、「私の許」だと後日、理解した。
2・ある日、こんな夢をみた。
なぜか階段がたくさんある。
階段と踊り場しかない。
私は階段を登ったり、降りたりしていた。
途中、ターバンをした老人が静かに目を閉じて座禅瞑想しているのをみた。
痩躯だが、筋肉がついていて、鋭い顔つきだった。
(イメージ)
なおも、私は、階段を昇り降りしていると、
踊り場に鍵が落ちているのを見つけた。
鍵を拾い、なぜか私は老人に鍵を手渡した。
老人は目を開いて、立ち上がって言った。
「通ってよい」と。
老人の後ろには、小さな扉の入り口があった。
その中を私は四つん這いになり、はって、進んでいった。
暗いトンネルを抜けると明るい空間に出た。
みると、白いピラミッドが数基あった。
近代的な小さな建物もいくつかあった。
アキアナ・カラマリックの絵に似ている。
海や川はみなかった。
この夢の意味が、3年半わからなかった。
3・ある日、声が聞こえた気がした。
或る声「おまえの役割は終わった」
私は、寿命が近いのかと感じた。
(後日、死ぬのではないとわかった)
(また、生かされている)
4・またあるの時、声を感じた。
私「喜びは与えられないのか」
或る声「誰がそんなことをいった?喜びを与える」
このことがあってから、急激にたくさんの知識を得た。
5.建築中の家の夢
長い道を経て、建築中の家に誰かに案内された。
ヨハネの福音14章を心にとめている。
1.1 メモ
・このブログのコメント欄は承認制です。
エドガー・ケイシーなどはECCJの掲示板を使用します。
・追記するので、ですます体とである体などが混同しています。
・番号の若い順に読んで下さい。
ある程度の聖書理解がある方向けとなっています。
聖書を通読し、出来事の理解、意味の理解がある方向けです。
下記のふたつの理解に向けてのBlogです。
・聖書の黙示録
・釈迦の無我と解脱、マイスター・エックハルトとヤコブ・ベーメの無底
・順に伝えていきます。
黙示録や終末にとらわれすぎないことも大切である。
今が最も大切と聞いている。
(過去や未来ではなく、今とちょっと先の未来)
洗礼や聖化は死後ではない。肉体にいるうちにも可能。
栄化は、最後の審判の時。
聖化を受けるためには、まず門をとおり、内庭に進まないといけない。
謙遜になるしかない。
主の前にへりくだり、魂が砕かれた時、起きる。
・1つだけの学びでは足りない
キリストの体の一部に過ぎない
枝にすぎない。木であるイエスを知る。
しっかり学ぶと、霊の実をむすぶ。
主よ、教えてくださいというへりくだりが大切
1. 種を蒔く