3. 聖書の学び方
・最初の一年でいいガイドにであれば、ラッキーである。
出会えないと、盲目のまま、暗闇を歩むことになる。
3年も我慢してストーリーを読んでもほとんど意味がない。
出来事の理解は進むが、詩篇・イザヤ書・黙示録などは理解できない。
・使用する聖書はどれでもいい。
新改訳でも、新共同訳でもいい。
欽定訳でも、新欽定訳でもいい。
・ある時、なぜかわかるとは言えない。
むしろ、きちんとした説明がないと、ゴールに到達しない。
そのように構成されている。
真理の目が開かれないと、理解できないと書かれてある。
自力では不可能とも書かれてある。
聖霊と御霊によって、視えるようになり、理解できると書かれてある
数十年やっても理解していない人々が多い。
一生、目が開かれない人もでてくると書かれてある。
目が開かれた人は幸いだと書かれてある。
・インターネットでは役立つようなものは、少ない
肝心な説明をしていない。
・聖書に関する本も、大半は感想文や雑文。
真に大切なところを伝えていないのは、目が開かれていないから。
・イザヤ28章13節
主の言葉は、教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則、ここにも少し、そこにも少し。
聖書全体に散りばめられている。
他人に教えるのではない。自分自身と自分の魂に教えていく。