9.2 十戒
第一条
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてならない(出エジプト記20の3)」
永遠に自存し、創造されたおかたでなく、自らすべてのものの根源であって維持者であられる主だけが、
最高の尊敬と礼拝をお受けになる資格がある。
人間は、主以外のなにものをも第一に愛して奉仕することを禁じられている。
神に対するわれわれの愛を減少させたり、神にささげるべき奉仕をさまたげるようなものを心にいだくときに、
われわれはそれを自分の神としているのである。
第二条
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるもの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない(出エジプト記20の4,5)」
像や類似した形のものによって真の神を礼拝することを禁じている。
多くの異教国民は、自分たちの像は神を礼拝するための象徴にすぎないと主張した。
しかし、神はこのような礼拝は罪であると宣告された。
物体をもって永遠のおかたを象徴しようと試みるときに、神に関する人間の観念は低下するのである。
人の心は主の無限の完全さから離れるときに、創造主より被造物のほうにひかれるのである。
そして神についての観念が低下するにつれて、人間は墜落するのである。
「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である。(出エジプト記20の5)」
人と神との密接で聖なる関係が、結婚の象徴によってあらわされている。
偶像礼拝は霊的姦淫であるから、これに対する神の不快がねたみと呼ばれていることふさわしい。
「わたしを憎むものには、父の罪を報いて、三代四代に及ぼし(出エジプト記20の5)」
子供たちが親の悪行の影響を受けることは避けられないが、その罪にあずからないかぎり、
親の不義のために罰せられることはない。
しかし、子供はたいてい親の歩いた道を歩くものである。
遺伝と手本によって、むすこたちは父親の罪にあずかる者となる。
肉体的病気と退化ばかりでなく、悪い傾向、ゆがめられた食欲、墜落した品行が、
父から子へ、また、三代四代と受け継がれる。
この恐るべき事実は、人間が罪の道に歩くのを抑制する厳粛な力とならねばならない。
「わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう(出エジプト記20の6)」
偽りの神々を礼拝することを禁止することの中には、真の神を礼拝するようにとの命令が暗に含まれている。
神を憎む者に対して怒りが三、四代に及ぶと予告されているのに対して、神への奉仕に忠実なものに対しては、
千代まであわれみが約束されている。
第三条
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
主は、御名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかないであろう(出エジプト記20の7)」
この戒めは、偽証や日常のののしりの言葉を禁じているだけでなく、その恐るべきも考えないで、
神のみ名を軽々しく、あるいは不注意に使うことを禁じている。
日常の会話において、神について無思慮に発言することや、ささいなことを神に訴えることや、
神のみ名を、幾度も無思慮にくりかえすことなどは、神のみ栄えを汚すことになる。
「そのみ名は聖にして、おそれおおい」(詩篇111の9)
神のとうといご品性についての観念が心に印象づけられるように、だれもが、神の尊厳と純潔と神聖さとを瞑想すべきである。
そして、彼の清いみ名は、うやうやしく厳粛に言わなければならない。
第四条
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。
それで主は安息日を祝福して聖とされた。(出エジプト記20の8から11)」
安息日は、新しい制度として取り入れられたものではなく、創造のときに制定されたものである。
それは創造主のみわざの記念としておぼえられ、守られるのである。
安息日は、神を天地の創造者として指し示すことによって、真の神とすべての偽りの神とを区別している。
七日目を守る者はだれでも、その行為によって、彼らが主の礼拝者であることを表示するのである。
このように、安息日は、この地上において神に仕える者があるかぎり、神に対する人間の忠誠のしるしである。
第四条は十戒の中で、立法者の名と称号が二つともしるされている唯一の戒めである。
それは律法がだれの権威によって授けられている唯一の戒めである。
このように第四条は、律法の確実性と拘束力の証拠としてそれに押された神の印を含んでいる。
神は、人間に、働くために六日間をお与えになり、彼ら自身の働きがその六日の働き日になされるように要求される。
病人や苦しんでいる者はいつでも世話しなければならないので、必要とあわれみの行為は安息日にもゆるされるが、
不必要な働きは厳格にこれを避けなければならない。
「安息日あなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず(イザヤ書58の13)」
禁止はこれだけではない。
「むなしい言葉を語らない」と預言者イザヤは言っている。
安息日に、商売の話をしたり、商売の計画をたてたりする者は、神から実際に商売の取り引きに従事したのと同じにみなされる。
安息日をきよく守るためには、世俗的なことがらを心に思いめぐらすことさえしてはいらない。
この戒めには、われわれの門のうちにいるすべてのものが含まれている。
家の中の同居人は、この清い時間の間、世俗的な用事をやめるのである。
この清い日には、みんなが一つになって、心からの奉仕によって、神をあがめなければならない。